最後だとわかっていたなら

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大阪池田小の事件から、今日で20年目となることを報せる天声人語

その詩のことが書かれていました。

埋めようの無い後悔の記述の後、深い哀しみの感情は

大切なもの達への気持ちを表すことを、素直に肯定する処へと至り

諸々「別離の時」へと向かい続けている私の背中を優しく押してくれるのです。

 https://www.sanctuarybooks.jp/saigodato

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(例によって、話のスケールは超個人レベルとなりますが…)

写真はウチの駄犬マルの散歩友達だった、チョビちゃん。

此方は去年の画像。紫陽花を撮りに出た雨の日に、お散歩に来ていたところです。

 

先日近くのクリーニング屋さんで、飼い主さんに偶然お会いし

チョビちゃんも既に向うへ逝ったことを伺いました。

何とかデータを見つけ出したものの、お住まいは勿論、お名前も判らずという状況。

唯一の接点クリーニング屋さんに「いつも犬を連れていた、メガネのご婦人で…」と

雲を掴むような無理を言って、写真を託したのです。

 

昨日クリーニング屋さんより、「写真お渡しできました。お喜びでしたよ」との事。

喜んでもらえて良かったなと思うと共に、「あれが最後だったのなら、抱っこして

お顔を近づけた写真をやはり撮っとけば良かったな」と少し後悔。

一緒のトコ撮りましょうか?と尋ねはしたものの、雨だしまた今度で と

なっていたのでした。

巡り来なかったですね。その「今度」は。

 

梅・さくら・バラ・紫陽花・夏の濃い影・紅葉に雪景色にそして人物。

来年はもっと良い写真を等と思ったりしますが、今年・「いま」を

もっと大切にと思う次第。(写真だけでなく人間関係とかもですけどね寧ろ…)